京は遠ても十八里 ~ 海と都をつなぐ峠を辿り直す

『北山の峠』再訪

'PASSESS IN KITAYAMA' REVISITED

美山・唐戸越のユリ道(仮称)

丹波越 02 Tanba-goe

久多からのアプローチ


 

 

 

 

 

 

丹波越の鞍部

2018年4月中旬、根雪が溶けていることを期待しながら、再び「丹波越」をめざした。

目的は2つ。

ひとつは、久多の岩屋谷流域と久良谷流域における河川争奪の可能性を現場で確認すること。

もうひとつは、久良谷の下流域における、丹波越の古道をさがすことだった。

岩屋谷は久良谷支流を争奪するか

丹波越の周辺の地形図を眺めるなかで、気づいたことがあった。

久良谷支流の源流部が岩屋谷側に争奪される河川争奪が起きている、もしくは近い将来起きる可能性がある。

場所=https://maps.gsi.go.jp/#17/35.315992/135.800607/
(標高755m)

久良谷支流は滋賀県境に接する源頭部から南南西に流下し、標高755m地点で向きを変えて南南東に流下している。

この、向きを変える地点でいずれ、岩屋谷に直行して落ちてしまってもおかしくはない。

地形図だけでなく空中写真や衛星写真から見ても、この地点は河川争奪の瀬戸際にあることが感じられた。

 

能美越から降りて辿り着いた春の久多の風光は、家ごとに石楠花が庭を彩り、一ヶ月前に比すれば雪の季節が去ったことを告げていた。

岩屋谷の林道を歩き、久良谷と岩屋谷との合流点に着いた。

ちょうど標高500mである。

林道から、対岸に渡渉し、2つの谷の境界となる尾根に取り付いた。

谷沿いは浸食されているので、地形図の等高線に表現されている以上に、取り付きの斜面の傾斜は急である。

体が温まるまで、少しずつ立ち止まりながら尾根を辿った。

しだいに、赤テープの張られた踏み跡が明瞭になってきた。

振り返ると、南方にたたなづく尾根と谷、その高さと深さが樹の間越しに実感された。

少しずつ高度をあげているのだ、と。

650~700m付近で尾根が二俣に分かれ、ユズリハが群生している。

東方には経ヶ岳が特徴的な存在感でたたずんでいた。

経ヶ岳

700mを越えると、尾根が細くなり、右側(東側)には久良谷下流の存在が感じられるようになってくる。

西側には、深い岩屋谷を隔てて、三国岳に至る斜面が垂直の壁のように屹立している。

ユズリハをかきわけながら尾根を進むと、右から久良谷支流の谷が接近してきた。

伏流しているのか、水はほぼ見えない。

河川争奪に近い可能性がある問題の地点は標高755mだ。

久良谷支流は現在、写真右上から流下して、写真右下に流れ去っていく。

この地点で河床が相対的に高くなっており、左の岩屋谷側にいずれ水が乗り越す可能性があると感じられる。

久良谷支流の水。

(この写真は上流側から見たもの。久良谷支流は写真手前から、写真左上に流下している。もし河川争奪が起きれば、写真右上に流下するようになるだろう)

久良谷流域と岩屋谷流域を区切る堤防状の尾根はこの地点で低い鞍部になっていて、西方の岩屋谷側から急斜面の崩落・浸食が進行している。

確認の結果、現時点で争奪までは起きていなかったが、久良谷支流の河床は埋積により鞍部とほぼ同じ高さに達していて、実質的にこの地点だけは「堤防」が無い状態であった。

台風や豪雨など流量が増加する際には一時的にでも久良谷支流の水の一部分が鞍部をオーバーフローして岩屋谷側に溢れている可能性もあるのではないかと感じられた。

いずれにしても久良谷と岩屋谷の水は久多川・安曇川を経て琵琶湖に至るのではあるが、今後、河川争奪が実際に発生するとすれば、以下のプロセスを辿る可能性がある。

(1)久良谷支流源流部からの土砂の供給により、鞍部付近の河床が一層高くなる。

(2)岩屋谷側からの浸食により堤防状の尾根の鞍部が一層低くなる。

(3)雨により流量が増加した時などをきっかけとして、久良谷支流から岩屋谷への溢流が起き、上記(2)と相俟って鞍部の刻みが深くなり、岩屋谷への流下が固定される。

(4)結果、従来の久良谷源流部は岩屋谷流域に変わり、久良谷支流の下流部の流量と浸食力は低下する。岩屋谷の流量と浸食力は増加する。

焦点となるこの地点から、当初は尾根を登っていく予定だった。

谷の遡行は急傾斜すぎるのではないかと、地形図から感じていたからだった。

しかしこの久良谷支流を見ると水や岩も少なく、そのまま谷を遡行できそうだった。

尾根をやめて、少なくとも行けるところまでは谷を遡行してみることにした。

冬枯れの名残か、まだ草木も茂らず、曇天のなかの茶色の風光のなかを遡行していった。

次第に水音もなくなり、なだらかな源頭のなかをあるくようになった。

滋賀県との境界となる尾根も前方に見えてきた。

この源頭部も、仮に河川争奪が実現すれば、久良谷の流域から岩屋谷の流域へと、位置づけが変わるはずだった。

やがて京都府と滋賀県との境界尾根に到達した。

この付近にはムシカリ(オオカメノキ)がちょうど、白い花をつけていた。

オオカメノキ

境界尾根から南方を望むと、前方の尾根の向こうに遠方の尾根が重なって見えた。

あとは、境界尾根をそのまま東に回り込み、いわゆる丹波越の鞍部に辿りつくことを目指した。

標高点885mを越えて尾根をたどる道中、再び経ヶ岳の姿が樹間に垣間見えた。

その向こうには、遠く京都に連なる峰々が揺曳している。

『北山の峠』の著者は、経ヶ岳の東面(下の写真では山頂の左側)を丹波越の道が回り込み、ミゴ谷に降りていると仮説を立てたのだ。

一方、今回の現地確認では府県境界尾根上、標高点885mの東方にあるいくつかの鞍部が、実は丹波越の峠だったりするのではないかという思いも持ちながら観察したが、そうしたいくつかの鞍部は余り峠らしい地形や痕跡を備えているわけでもなかった。

久良谷上流部の再検討

いわゆる丹波越の鞍部にたどり着いた。

前回(3月)は、朽木桑原から取りつき、丹波越の鞍部から見て、久良谷左岸側の支尾根をくだったのだが、今回は久多の側からアプローチして岩屋谷と久良谷の間の境界尾根を這い上がったあと、京都府と滋賀県の境を辿って回り込み、再び、この鞍部に立ったのだった。

峠から朽木側に少しくだった、いわゆる茶屋跡の地点に水が滲み出し、蛙の卵が漂っているのを眺めてから、鞍部に立ち戻った。

今回の目的は、丹波越の鞍部から見て久良谷の右岸側を少しくだってから、やがて現れる小さな支尾根をくだることだった。

久良谷の谷底自体、特に地形図から見て急傾斜になる部分は、V字型に浸食されていて道をつけがたいと感じる。

右岸側の小さな支尾根に、古道の痕跡がないかを確認したかった。

源頭の下部にあるV字型の急流部を回避するためにこの小さな支尾根を下ったあと、緩やかな谷底をくだる、そんなオプションの可能性があるのかどうか。

まず、鞍部から久良谷のゆるやかな源頭をくだった。

やがて浸食が急になり、谷底は歩きづらいほどV字型になってきた。

右岸に移行して、支尾根にトラバースした。

しかしこの小さな支尾根は傾斜が急であり、掘れた古道の痕跡もないようだった。

灌木のなかを苦心してくだった。

(降りてきた支尾根の末端)

久良谷の上流部を振り返ると、かなりの急傾斜で、複数の小滝もかかっていた。

支尾根を降りきったところからは久良谷の谷底を歩いた。

朽ちたカツラの大木が佇立していた。

谷の傾斜自体は比較的、平坦ではあるが、狭いV字型の谷底で、且つ、時々は小さな段差の滝もあり、谷底に安定した道はつけがたそうであった。

谷底から少しうえの斜面も時々すかし見たが、古道の痕跡は見えなかった。

蕭々と音を立てる谷底歩きはやがて終了して、谷の合流点に達した。

前回の仮説、すなわちこの合流点から峠の鞍部までは、谷でなく支尾根が道だったのではという仮説が、心のなかで改めて浮上してきた。

東俣と西俣のあいだに挟まれたこの鋭角の支尾根の末端では、岩盤が古道のために少し開鑿されているように見えてならないのだった。

久良谷下流部の確認

この二俣から下流には、右岸に道が残存していた。

3月上旬に来た時には、この道にまだ雪が溜まっていたのだ。

この右岸の道をくだっていく。

5~10mほど左下に流れる渓流の音を聞きながら歩くこの道。

山の基盤岩を開鑿して道をつけたところは形状に安定感があった。

岩を開鑿している


(この写真は下流側から上流側を振り返って撮影)

ところが早くも、道の崩落しているところに出会った。

上に迂回するか下に迂回するか思案したが、ここでは下に降りてからまた登り返すかたちで崩落を迂回した。

再び、道をたどっていく。

はるか下部、谷底を眺めすかせば、久良谷の流れが比較的大きな滝になって落ちている地点も見えた。

もうひとつの気付きは、この道はずっと水平で、眼下の谷だけが高度を下げ、谷との高度差がどんどん開いてしまって、かなりの高みを歩いている心境になってくることだった。

この行程の最初、岩屋谷と久良谷の境界尾根を這い上がった時に見えた心象風景「南方にたたなづく尾根と谷、その高さと深さが樹の間越しに実感された」がほぼそのまま再現し、谷との高度差が広がることから、むしろ上に登っているような印象すら受けるのだった。

いつになったら谷底に降りられるのだろう。


道は次第に細く分かりにくくなった。

また、道が崩落しているところがあった。

そして道を踏み外せば蟻地獄のように、バラス化した地表をどこまでも滑り落ちていく危惧があった。

危険を避けるため、道より上の斜面を這い上がり大きく迂回してから再び道におりる、そんな方法で迂回した。

やがて、本当に古道の痕跡がわかりにくくなった。

この痕跡が途絶えた地点から、尾根をくだって久良谷の谷底に向かった。

鹿の食害で下層植生が失われたのか、表土がバラス化して崩れやすくなっており、それが古道の荒れ方と関わっているようにも感じられた。

久良谷の谷底に着いたあと、谷底を歩くと、岩がごろごろとしていて、右岸左岸と移動しながら歩いた。

そして岩屋谷と久良谷との合流点に戻った。

この地点からは左岸に古道がついているようだった。

こうして出発点に戻ってきたわけだが、逆に久多側から登る視点で見れば、仮説として、丹波越の道はまず、岩屋谷と久良谷との合流点から久良谷を遡上する。

そして右岸の斜面をのぼり、ほぼ水平なユリ道を進む。

二俣の合流点に達したあとは、対岸に渡渉し、もしくは今は無い木橋を渡り、谷底でなく支尾根(前回下降したもの)を登って峠の鞍部にストレートに達する。

これが現時点の仮説である。

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